勝道上人
上都賀郡誌(上)・(下)・・・
4.勝道上人(しょうどうしょうにん)

(イ)勝道上人
この時代の我が郷土の文化にとって特筆すべきことは、勝道上人の出現である。天平7年(735)4月21日下野国芳賀郡高岡の里に生まれる。
上人は垂仁天皇(すいにんてんのう:第11代天皇)第9の皇子池速別命(いけはやわけのみこと)第18世のえい(※末裔)、高藤介(※若田高藤・高藤介・わかたたかふじ・たかとうのすけ 読み不明)と言う人の子で幼名を藤糸(※読み不明・ふじいと)と呼んだ。

天平勝宝6年(754 てんぴょうしょうほう)藤糸20才の時、夜中ひそかに家を出て出流(いずる)の岩窟に入って篤信に勉強した。
この間3年間、更に夢のお告げによって出流山奥の大剣峰(※横根山らしい。読み不明:おおけんがみね)に入って修行し、24才の時出流観音(※栃木市の満願寺?)に帰った。

天平宝字3年(759 てんぴょうほうじ 淳仁天皇の代)、聖武天皇(しょうむてんのう 第45代天皇※749没 生前薬師寺を建てなさいと命じたのでしょう)は下野薬師寺に戒壇をお建てになった。この時藤糸25才、仏道修行の心に燃える彼は、薬師寺に赴き、当時、唐より来朝した高僧鑑真和尚(鑑真和上:鑑真は律宗・天台宗を学んだ和上(わじょう))の弟子である如意僧都(読み不明 にょいそうず)、及び唐人、恵雲律師(読み不明 けいうんりつし)について研学(けんがく:学問を研究した)した。こうして27才の時剃髪して厳朝(読み不明 げんちょう)と称し、後自ら勝道と改称した。勝道が薬師寺にいること5ケ年間、その間に虚室蔵大悲来聞持法(読み不明:※調べると虚空蔵求聞持法はあるのですが)、華厳経(けごんきょう)、法華金光明(読み不明 ※法華経と金光明経のことか?)唯識論(ゆいしきろんと読むのでしょう)などの研鑽に専念された。

(ロ)上人の二荒開山
天平神護元年(765 てんぴょうじんご)9月、勝道は補だらく山開拓の途に就き(つき)、まず出流の観音に詣ではるか雲際にそびえる二荒嶺(現在の男体山と周辺の山々)を仰ぎつつ、ついに大剣峰古峰原の道場に入った。しばらくここに仮庵を結び、道経三昧(?読経三昧か何かお経の一つでしょう)の生活に着き、更にこれより二荒の峰を仰ぎつつ峰峰を跋渉(ばっしょう:山野を越え、川をわたり、各地を 歩き回ること)し、同2年3月大谷川を渡り対岸に四本龍寺を建ててここに居住を定められた。

神護景雲元年(767 じんごけいうん)4月上人33才の時、二荒(現在の男体山)の絶頂(山頂)を極めようとして四本龍寺を出てより山賊(当時そんなに人が住んでいたと思われないので、熊・狼等の獣のことか)と闘い修行すること10余年、桓武天皇(かんむてんのう、737年〜806年4月9日 第50代天皇)延暦元年(782 えんりゃく)3月上人48才の時初めて絶頂(頂上)に達した。それより湖畔を周遊して神宮し(神の宮を祀った意味?)それは二荒山神社の傍らにあったが、明治35年の洪水の後、歌が浜に移し、現在国宝として観音堂(どこだろう 立木観音?)に安置されている。

(日光砂防事務所HPには明治35 年(1902 年)9 月28 日。足尾台風が栃木県全県に被害をもたらしました。大谷川では水源部で崩壊が多発し、神橋、大谷橋、人家100余戸を流出。死者156、行方不明63、負傷280、家屋全壊8217、半壊389 に至りました。)とあります。・・・

上人は山林抖そう(とそう:衣食住に関する欲望を捨て,仏道を修行すること。)の行に励んで仏を信奉するのみならず、よく朝廷国家のために祈祷し、大同2年(807 だいどう)夏、上人73才の時、東国干ばつの際、下野国司橘利遠(橘俊遠という人物は実在した)の依頼により雨を祈ると、雨がはい然(沛然 雨が勢いよく降るさま)として来た。その功により常総の済物(さいもつ 荘園制時代、みつぎものとして納めた地方の産物)を賜った程である。

(ハ)上人の入滅
上人はその後年々二荒の絶頂に登り、弘仁7年(816 こうにん)4月、82才の高齢の時頂上の対面石の所において日光三社権現の影を拝してこれを祀り、翌弘仁8年3月1日上人は四本龍寺に教旻(きょうびん)、仁朝等の十哲その他の徒弟を集め、二荒山開闢(かいびゃく)の由来及び皇室国家のために神仏を奉し、永く法灯を継ぐべきことを遺言して眠るがごとく入滅された。実に上人83才の時である。仏岩谷(開山堂隣)、上野島(中禅寺湖)、菖蒲ケ浜の瑠璃壷(※龍頭滝近くの地獄沢にあるようです。)の霊地の3ケ所に納められてある。

(ニ)上人と足尾
神護景雲元年(767)、勝道上人は足尾庚申山に登り、詣路(読み不明 けいろ 参詣路のこと?)を初めて開通したと伝えられ、また、足尾町にある龍蔵寺は大同2年(807)勝道上人の開基によるものである。

(ホ)上人と加蘇山神社
本郡加蘇村にある県社加蘇山神社は第49代光仁天皇の御代、勝道上人の開山と伝えられる。

(ヘ)上人と古峰原神社(古峯神社)
古峰原神社由来によれば、天平宝字元年(757)勝道上人23才の時出流の岩窟を出て、大剣峰に至るとある。この大剣峰はすなわち今の三枚石の所で、上人はここにおいて苦行すること数年、その間上人に食料その他日用品を給し、あるいは雪踏み、道案内等をした者が今の古峰原家の祖先であると伝えられる。

(ト)上人と鹿沼の千手観音
鹿沼の千手観音は日光中宮祠の立木観世音と日光清滝の観世音と共に一ケ木三体の観世音と称し、上人の作にかかるものであると言う。

この年表は栃木市に合併する前の都賀町のホームページに掲載されていたものですが、合併と同時に勝道上人のページが削除されてしまいました。
以前にこの年表をコピーしておきましたので、これに手持ちの画像を付けて整理してみました。年表の中に多数の寺院等が表記されていますが、1200年以上も前のことなので、現在地の寺院であるかどうかは不明です。いろいろな文献にもとづいて年表を作成したと思われますが、現在のように番地がなかった時代で、多少の所在地の誤差はしかたがないと思います。年表を勝手に利用して誠に申し訳ございませんがご了承ねがいます。

■国指定史跡 下野薬師寺跡周辺散策案内パンフレットより・・・
日光開山の祖、勝道上人の父藤麿の墓に植えられていたと伝わる白藤のあった場所に建てられた石碑。
■説明板・・・
●下野市 指定史跡 藤麿墳(ふじまろふん)
藤麿は勝道上人の父である。勝道上人は761年から765年の5年間、下野薬師寺で修行したといわれている。その後日光へおもむいて四本龍寺(しほんりゅうじ)を創建して日光開山の祖となる。勝道上人の父藤麿が没すると、上人は父の遺骨を上人修行の地である薬師寺の地に埋葬し、白藤の木を植えて墓標を建てたと伝えられている。安政4年9月薬師寺村役人並びに世話人が発起人となって、白藤の木ではいつかその地が不明になることを恐れ、現在の石の碑を建立した。
平成8年3月
下野教育委員会
日光輪王寺境内に立つ勝道上人像
↓27.5.19 日光東照宮400年式年大祭
紀元 年 号
645 大化元年 
国毎に国司を置く。詔して仏教を興す。詔勅が出される。
680 元号なし
天皇、皇后両陛下の病気平癒祈願のため、奈良と下野の2ヶ所に薬師寺を建立。
下野薬師寺跡 旧南河内町 現下野市
下野薬師寺跡(下野市) 安国寺(下野市) 奈良薬師寺

■下野薬師寺歴史館でいただいたパンフレットには・・・
●下野薬師寺
今から約1200年前(7世紀末)に創建されたと考えられます。正確な創建時期を記した文献は残っていませんが、730年ころに国の出先機関「造下野薬師寺司」が設置され、国家事業として造営が進められました。749年には法隆寺などの中央諸大寺と同格に列せられ、その後761年には僧の受戒のための戒壇が置かれ、東大寺、築紫観世音寺と並ぶ三戒壇の一つに数えられました。東国仏教の中心的役割を果たした下野薬師寺も、1092年には伽藍が「破壊転倒甚だし」と記されるほど荒廃しますが、鎌倉時代に慈猛によって中興されます。室町時代に足利氏が全国に安国寺を建立した際に寺名を安国と改称し、その法灯を今に伝えています。

◆安国寺 現地説明板◆
■1説明板・・・
安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在するところから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺を寺名改称したと伝えられている。当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が姿を留めていたと考えられるが、元亀元年(1570)に北条氏政の兵火により大半が焼失したと伝えられている。現在は真言宗の寺院で薬師如来を本尊とする。その境内は、七世紀後半に創建された日本戒壇の一つとして知られる史跡下野薬師寺跡の中枢部に位置しており、白鳳文化の香りを現在に伝えている。現在の本堂は明治38年に再建されたもので、近世以前の建物は六角堂と山門の一部を残すのみである。
南河内町教育委員会(現下野市)

■2説明板・・・
●下野薬師寺伽藍礎石(しもつけやくしじがらんそせき)南河内町指定有形文化財
この礎石は民家のひとが東塔跡(とうとうあと)付近から掘り出されたものと言われており、どの堂塔(どうとう)の礎石かあきらかではありません。礎石面の中心に見られる円形状の穴は、ほぞ穴で柱根に出ほぞを造り、ここにはめ込んであったものと推定されます。凝灰岩製とみられるこの形式の礎石は、白鳳時代に盛行したものといわれています。隆盛期の下野薬師寺の壮大な伽藍も現今ではわずかに礎石と古瓦などが残っているだけで、往時を再現する手がかりとして貴重な資料の一つにもなっています。
南河内町教育委員会(現下野市)

■3説明板・・・
●安国寺 国指定史跡  下野薬師寺跡 大正10年3月3日指定
・指定理由
社寺の跡及び祭礼信仰に関する史跡として重要なものである。
・説明
下野薬師寺は天武天皇の勅願によって建立されたと伝えられる。所伝は別にしても出土古瓦からみて白鳳期の創建はほぼ事実とみられる。天平宝字5年(761)大和東大寺筑紫観世音と共に、この下野薬師寺に僧尼に対し戒律を授ける戒壇が設けられ日本三戒壇の一つとして東国随一の寺格を誇った往時、南都七大寺に比肩すると称せられた。大伽藍はすべて烏有に帰し、いまいま目の当たり見ることはできないが安国寺を中心とする附近一帯にはなお当時の土壇が遺存し盛時の面影を残している。

■4説明板・・・
●下野薬師寺跡
仏教は奈良初期(710年頃)になって地方にも広まり、この寺もその頃建てられ7つのお堂がならび、たくさんのお坊さんが集まり修行しました。道鏡がここに左遷されたのも有名なことです。この寺は、東西245m、南北343mにおよぶものでしたが、土塁跡など一部に、昔のおもかげがしのばれます。国の史跡に指定されています。

四つの説明板でした。
735 天平7年
4月21日、勝道上人生まれる。幼名を藤糸と称す。

父…下野国府の高官(介)若田高藤、城山の豪族である。高藤の父は、室の八島(惣社)に住んだが、その後、都賀郡城山(つがごおりきやま)を居城にした。高藤の先祖は、垂仁天皇の第9の皇子である。
下野国庁跡(栃木市) 大神神社(栃木市) 大神神社室の八島

母…芳賀郡高岡(真岡市)の豪族吉田(きちだ)の連氏の娘、明寿(みょうじゅ)である。4月21日母の里高岡で出産した。

■説明板・・・
●下野国庁跡
国庁とは、大宝律令(701)により確立した律令国家体制における、地方統治の中核として設置された、国府の中心部にあたる建物です。国府跡については、栃木市内の勝光寺付近説・惣社説・古国府説などがあったが、昭和54年夏、同市田村町の宮野辺神社付近で、国庁域が発見されました。約90m四方の国庁内郭には、前殿・東脇殿・西脇殿・南門が配され、前殿の北側の神社境内には正殿(政庁)が存在することは確実であるが、未発掘であります。
環境庁・栃木県

■説明板・・・
●東脇殿(ひがしわきでん)
長大な南北棟の建物であり、国府の役人が事務を行った施設です。発掘調査により延暦(えんりゃく)10年(791)頃焼失したことを確認しています。西側に建てられた同規模の西脇殿とは、前殿を中心に東西対称の位置関係になっています。発掘調査により確認した建物跡は、奈良時代前期から平安時代前期のもので、この間に4期の変遷があります。また、これに先行する竪穴住居跡を建物直下で確認しています。ここに建てられている藤棚は、奈良時代後期(U期)の東脇殿の一部について柱の位置、太さ、軒の高さを復元しながら制作したものです。建物の北部は宮目(みやのめ)神社境内となるため、柱位置のみの表示としました。また、建物内部には、床板が張られていたことがわかっており、床を支えた柱位置も表示いたしました。
(T期)掘立柱建物、東西約4.8m、南北約45.0m
(U期)掘立柱瓦葺建物 東西約4.8m、南北約45.0m焼失
(V期)礎石立建物 東西約4.8m 南北約45.0m
(W期)掘立柱建物 東西約5.4m 南北約43.8m
■説明板・・・
●国指定史跡「下野国庁跡」
下野国庁は、律令制下(奈良・平安時代)における地方統制の中核として設置された役所であり、同時に政治、経済、交易等のいわば下野国の古代文化を集約する唯一の地方拠点でありました。国庁の中心である国庁域は、奈良時代後期には東西南北約95mあり、周囲を板塀に囲まれ、南央部に「南門」、中心部に「前殿」、その両側に「東脇殿」「西脇殿」が造営されていました。昭和51年から行われた発掘調査では、国庁の建物群や区画施設(堀、北門)、中心道路の南大路、国司館(推定)等の遺構が確認され、木簡、漆紙文書、土器、瓦などの貴重な品々が出土しました。その全域が明らかである国庁跡は全国的にも貴重であり、昭和57年に国指定史跡に指定されました。平成6年には、前殿が当時の姿に復元され、その後、平成8年に敷地内に下野国庁跡資料館が開館して出土品が無料公開されております。
■大神神社現地説明板・・・
●大神神社(おおみわじんじゃ)
創建は、約1,800年前、第10代崇神(すじん)天皇の第一皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)によると伝えられています。別名を六所明神といい、延喜式内社の筆頭となっています。
社伝によりますと、大神神社は天皇の皇子、豊城入彦命が東国治定のとき、大和国三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する日本最古の神社、大和国一ノ宮三輪明神の分霊を奉斎し、民の平和と五穀豊穣を祈願したのが始まりで、その後7世紀後半下野国府が当地に置かれ、その後、国司が国内の有名な神々を大神神社に奉斎して惣社(総社)としたとされています。
■大神神社現地説明板・・・
●大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社は、日本最古の神社である奈良県の大三輪(おおみわ)神社の分霊を祭るため、建立されたと伝えられている。境内には、下野(しもつけ)の名勝地「室の八嶋(むろのやしま)」があり、元禄2年(1689)松尾芭蕉はこの地を訪れ、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句を残している。
毎年11月25日の夜には、安産を祈願する「御鉾祭(おほこまつり)」が行われる。
環境庁・栃木県

735 天平7年
■仏生寺(ぶつしょうじ)境内の文化財について・・・現地説明板
●栃木県指定史跡 日光開山勝道上人(しょうどうしょうにん)誕生地
(昭和32年8月30日指定)
上人は、天平7年(735)7月芳賀郡大内庄高岡(現真岡市南高岡)字卯ノ木花錫状嶽の麓(現真言宗仏生寺境内)で生まれた。(父:下野国府の次官若田高藤介、母:芳賀郡高岡吉田主典の娘明寿)

上人は幼名を、藤糸丸と称したが、幼い頃から仏心厚く20歳の時出流(いずる:現栃木市満願寺)の洞窟に籠もって修行し、のちに薬師寺(現河内郡南河内町⇒現在は合併により下野市)に至り、5年間、この寺で修行し、名を改めた。後に日光山に入り苦行を積み重ね、日光山内に四本龍寺を建立し次いで中禅寺湖畔に二荒山神社奥社を祀り、立木観音堂を建立、山岳信仰の基礎をつくった。・・・・・
栃木市 大神神社 室の八島
下野薬師寺跡(下野市)
大神神社(栃木市)
境内に室の八島がある
勝道上人誕生の寺
仏生寺(真岡市)
737 天平9年
下野に国分寺、国分尼寺が建てられた。
下野国分寺跡(下野市) 下野国分尼寺跡(下野市)
■下野市下野国分尼寺にに設置してある説明板・・・
●下野国分寺・国分尼寺
国分寺は奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国の平和と繁栄を願い、国ごとに造営を命じた寺院です。下野国分寺跡は大正10年3月3日に国の史跡に指定され、現在は伽藍(がらん)の基壇(建物の基礎)跡が地膨れとなって平地林の中にひっそりと眠っています。伽藍配置は全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式で、南北一直線上の南大門(なんだいもん)、中門(ちゅうもん)、金堂、講堂が並び中門と金堂は回廊によってつながっています。塔は回廊の外側東方に置かれ、基壇の規模から七重の塔があったと推定されています。また、金堂の東西には鐘楼、経蔵がおかれています。下野国分尼寺は昭和39〜43年度にかけて栃木県教育委員会と町教育委員会により4次にわたる発掘調査が実施され、伽藍配置が明らかになりました。
昭和40年4月に僧寺跡 同様国指定史跡となり、昭和45年度までに国・県の補助を受けて史跡整備が実施されました。この伽藍全体に及ぶ調査・整備は全国に先駆けて実施されたものです。尼寺の伽藍は、国分寺と同様に掘立柱塀で囲み、その南辺中央に南門を設け、中門・金堂・講堂・尼房が一直線に並び、回廊が中門と金堂をつないでいます。また、金堂・講堂の東西に鐘楼・経蔵を配し、塔は持っていません。建物規模は、金堂が桁行7間(20.9m)、梁間4間(12.1m)となっています。
四至(しし)については、近年の調査によって、国分寺を同様に伽藍他の掘立柱塀を築地塀に建て替えること、寺院他の区画溝を周囲に巡らすことが判明しています。また、尼寺からも国分寺改修の時期の瓦が多量に出土しており、尼寺も9世紀後半頃、国分寺同様、主要堂宇の改修を行っていることが判明しています。 
741 天平13年 
藤糸7歳のとき明星天子降誕して三帰依四弘法誓願を授けられる。
743 天平15年
聖武天皇、詔して金銅の盧舎那仏を造る。(東大寺)
東大寺盧舎那仏
749 天平勝宝元年
藤糸15歳、国府近くの清水で水垢離(みずごり:みそぎ)を始める。
(現在の普賢院―栃木市大宮町にある)
752 天平勝宝4年
聖武上皇、東大寺(奈良)にて大仏の開眼供養を行う。
東大寺大仏殿
753 天平勝宝5年 
鑑真和尚来朝(52歳)、蔗糖を持参する。
754 天平勝宝6年
藤糸20歳、出流にこもって修行する。

■栃木市満願寺のホームページには・・・
●真言宗智山派 出流山満願寺は、弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第十七番札所です。今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山されました。この「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があります。

下野の国司(今の県知事)の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平七年に男の子を授かりました。この子がのちの勝道上人です。以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されています。
・・・とあります。
757 天平宝字元年
藤糸出流山より、大剱峰へ修行に登る。
(大剱峰=横根山・日光修験の修行地)
通順坊平巴の宿(鹿沼市)
深山巴の宿(鹿沼市) 古峰ヶ原高原(鹿沼市)

■現地説明板・・・
●粟野町史跡 通順坊平巴の宿
この史跡は、粟野町大字入粟野1508番地(横根山)通称「通順坊平」という。ここは上古(じょうこ:昔)中山道から会津に通ずる交通の要路に当たる。勝道上人は出流修練の後、大剣峰(横根山)に登り3年の修行を積んだとされ、その後薬師寺にて戒を受け僧籍に入ってから、弟子達と日光開山の壮途に上り、ここ巴の宿に籠って修業した後、日光開山を成し遂げたいわれる。この史跡には巴に流れる沢水・五輪塔・祭儀跡の磐座(いわくら:信仰の対象となる岩そのもののこと)や古桜(こざくら)又石小屋等
日光修験の行法を積んだとされる数々の遺跡が残っている、貴重な文化財です。
史跡指定面積 4530u
粟野町教育委員会(現鹿沼市)

■鹿沼市 現地説明板・・・
●史跡 深山巴の宿
日光開山の勝道上人が、明星天子の示現により修行の地として定められた所で、ヒノキ・スギ・モミ・ミズナラ・シラカバ・シロヤシオなどの樹木の中に巴形に清水が流れております。上人はここに草庵を結び、古峯(ふるみね)の大神と御神威と古峯ヶ原(こぶがはら)の人々の援助によって修行を積まれ、二荒山(ふたらさん)を開山されました。いわゆる、日光開山の発祥の地となった所であり、後には全日光僧坊達の修行の場として、一千年の永きにわたり、明治初年に至るまで修験道が行われた所でもあります。現在では、古峯神社の禊所(みそぎじょ)として使われております。
環境省・栃木県
759 天平宝字3年
鑑真和尚、聖武天皇のご冥福を祈るため唐招提寺を建てる。
唐招提寺(奈良)
760 天平宝字4年
藤糸大剱峰の修行を終え城山(きやま)に帰る。26歳。
つがの里 桜 つがの里 つつじ

●観音堂跡
観音堂は、山の中腹を平坦な段にひらいて建立されたものであった。奥行27m、幅97mの広場の中央には、大きいものでは径1mもの礎石が19個並んでいる。華厳寺本堂跡から、この観音堂跡までの参道の途中には、大小の平坦な段がいくつかつくられているが、これらはいずれも盛時には宿坊や堂が置かれたものであろう。また、参道の頂上部には十数段の石段をのこし、両側には石垣を築いて荘厳さを加えているが、いずれも大きな砂岩であり、この山のものではない。この急な斜面をどの様にして運び上げたのか、全く驚くばかりである。広場の一角には井戸の跡がある。山の中腹の湧水に恵まれたところに観音堂は位置し、この湧水ゆえに出井山の名を生じたのかも知れない。その傍らにある石碑は、念仏供養のために江戸時代に立てられたものである。現在は植林された木々に遮られて見ることはできないが、東方に筑波連峰が横たわる関東平野を一望する、すばらしい景観に恵まれた場所でもある。
平成6年4月1日
都賀町教育委員会

●都賀町パンフより
延暦8年(789)勝道上人によってこの地に建立された出井山華厳寺は、ここより西側の観音山にかけて、金堂、僧房、観音堂、塔が立ち並び往時は非常に壮観。
761 天平宝字5年
下野薬師寺と筑紫観音(九州)に戒壇を置く。
藤糸薬師寺に入り戒を受け僧籍に入る。27歳。
名を厳朝と改める。
762 天平宝字6年
具足戒を受け大悲虚空蔵聞持法を修める。
名を『勝道』と称した。
勝道の従弟道珍薬師寺に来り受戒す。
763 天平宝字7年
勝道の従弟教旻、勝道の弟子となり薬師寺に入る。
鑑真和尚寂す。(76歳)
765 天平神護元年
勝道日光開山の壮途に上る。(31歳)
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)太政大臣となる。
766 天平神護2年
勝道十哲らとともに大剱峰にて修行する。
大谷川に至り渡れず難渋する。深沙大王現れ山管の蛇橋(今の神橋)を渡る。(32歳)
対岸に仮庵を結び、ついで四本龍寺を建てる。
神橋 四本龍寺
767 神護景雲元年
勝道二荒山頂めざして上り、果たさずして帰る。
湖の北岸(中禅寺湖)に宿して径行念誦して四本龍寺に引き返す。
勝道庚申山を開く。
日光市 半月山から 庚申山荘 コウシンソウ

伝教大師生まれる。
768 神護景雲2年
四本龍寺付近の整備と門前町鉢石を設定。

■案内板
●日光市指定文化財史跡 鉢石
勝道上人が日光を開山(766)した頃、この鉢石町一帯にも始めて人家が建ち、上人の命令によるものか、または上人の行跡を讃仰する民間伝承かは不明であるが、「鉢を伏せたような形状」が名の起こりであり、上人の法縁にあやかるものである。この附近は中世紀までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山の門前町として「鉢石宿」の名称で呼ぶようになったのは、元和から寛永にかけて東照宮造営を契機としてであり、江戸五街道のひとつである日光街道二十三宿の最終駅「鉢石宿」である。
昔より、石の周囲には柵を設け、注連を張って神聖視されて保護の手が加えられてきた。

史跡 鉢石 旧日光市役所
あたりが鉢石町
769 神護景雲3年
四本龍寺内外の整備を図る。
称徳天皇崩御される。(53歳)
770 宝亀元年
10月 光仁天皇即位。
弓削道鏡を下野薬師寺に遣わす。
771 宝亀2年
勝道以下十哲峰修行の道場を開く。
山岳仏教の始祖とされる。(37歳)
772 宝亀3年
勝道峰修行続く。
道鏡薬師寺に没す。
道鏡塚(下野市) 龍興寺(下野市)
774 宝亀5年
弘法大師生まれる。
775 宝亀6年
勝道以下十哲故郷巡錫し、四本龍寺国府間の道路開通を図る。
鶏鳴山登山を果たす。(41歳)
普門寺(明神?長畑では)光明寺(樅山)医王寺(粟野)長徳寺(西方)を開基。
普門寺
(日光市長畑)
光明寺
(鹿沼市)
医王寺
(鹿沼市北半田)
長徳寺
(栃木市西方町)
776 宝亀7年
勝道瑞穂野村に成願寺を建つ。
成願寺
(宇都宮市
777 宝亀8年
勝道故郷訪問を終わり四本龍寺に帰り、山内整備に全力をつくす。
葛生に成就院、岩舟に恵生院を建つ。
779 宝亀10年
勝道中禅寺参道を作ることに全精力を注ぐ。
中禅寺参道
780 宝亀11年
勝道古峰原を大宿として峰修行の道場を開く。
鍋山に宝蓮寺を建つ。
寶蓮寺(栃木市)
781 天応元年
地方政治乱れ、四民枕を高うして眠れず。
4月、勝道二荒山の絶頂を極めんとしたが果たせなかった。
男体山
782 延暦元年
桓武天皇即位、全国民国家再建の希望に燃える。
4月、勝道宿願の二荒山の絶頂を極める。補陀洛(ふだらく・観音の浄土の意味)山と名付ける。(48歳)
784 延暦3年
桓武天皇都を奈良から長岡に移す。
地方の僧侶や官史が無断で堂塔をたて私腹を肥やすことを禁止する。
勝道中禅寺に登り舟を造り湖辺を周遊する。さらに、西湖・湯の湖などを発見する。
中禅寺湖 湯ノ湖 西ノ湖

勝道立木観世音を手刻、中禅寺ならびに神宮寺根本堂を創建する。
中禅寺(立木観音)
785 延暦4年
伝教大師比叡山を開く。
比叡山 ケーブルカー
788 延暦7年
伝教大師比叡山に延暦寺を建てる。(22歳)
延暦寺

勝道大日崎に五大尊を祀り、歌ヶ浜を開く。(54歳)
中禅寺湖スカイラインから 歌ケ浜駐車場
789 延暦8年
勅使参向し、勝道に上野講師と上人位を授ける。(55歳)
四本龍寺を勅願所として寺領を賜る。
勝道都賀郡城山(※現在はつがの里)に華厳精舎を建てる。(城山とは、現在の都賀町大字木を言う。)
華厳寺観音堂跡
(栃木市都賀町)
木の八幡宮
(栃木市都賀町)
つがの里
(栃木市都賀町)
790 延暦9年
上人四本龍寺の傍に山神を祀る。(今の本宮神社で二荒山神社の起源である)
四本龍寺 本宮神社

■説明板・・・
●四本龍寺観音堂(県指定文化財)
天平神護2年(766)大谷川を渡った勝道上人一行は、この地に草庵を結び、四本龍寺を建てた。その後、大同2年(807)下野国司、橘利遠(たちばなのとしとお)が千手観音を祀る堂を建立。四間四方(約8メートル)。二社一寺の建造物で唯一の素木造り。明治7年に、金剛童子を合祀をしたので「金剛堂」とも呼ばれる。下野三十三観音巡りの第3番札所。
■説明板・・・
●四本龍寺三重塔(重要文化財)
日光山二十四世座主弁覚が、将軍源実朝の供養のために仁治2年(1241)に東照宮境内付近に建立。その後この地に移された。貞享元年(1684)の大火で焼失、翌年再建されたのが現在の塔である。三間四方(約6メートル)。最下層の蛙股に十二支の彫刻がある。隣接の不動明王と石の護摩壇は日光修験の峰修行の遺跡である。
■説明板・・・
●四本龍寺紫雲石(しほんりゅうじしうんせき)
ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石で、勝道上人が、ある日、礼拝をささげた折、この石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方へたなびくのを見たということから、紫雲石と呼ばれる。そしてこの地を四神守護の霊地として、四本龍寺を建てたという。現在は、観音堂、三重塔のみだが、日光発祥の地であり、奈良、平安時代の日光の中心地であった。
791 延暦10年
上人清滝に中禅寺立木観音の分身を祀る。
坂上田村麿蝦夷を討つ。
清滝寺(日光市) 清滝寺跡(日光市)
792 延暦11年
上人長畑の木の峰に中禅寺立木観音の分身を祀る。
上人普門寺を建立。(上人の仮庵だった所・また上人の母の寓居だった所でもある。)
木峯観音
(日光市長畑)
普門寺
(日光市長畑)
793 延暦12年
上人鹿沼千手山に中禅寺立木観音の分身を祀る。(59歳)
千手山公園(鹿沼市)
794 延暦13年
天皇都を平安(京都)に移す。
795 延暦14年
全国の国師を廃し、講師、読師を置く。
796 延暦15年
坂上田村麿二荒山神社に戦捷祈願に来り、上人と会談する。(62歳)
798 延暦17年
上人暇あれば山林踏査を怠らず三峰五禅定の基を開く。
藤原に慈眼寺を建つ。
慈眼寺(日光市藤原)
801 延暦20年
蝦夷平定、二荒山の霊験によるとの故で武蔵、相模、常陸、上総、下総の貢物の灯油料として寄進せらる。
804 延暦23年
弘法大師、伝教大師相携えて唐に渡る。(遣唐使)
805 延暦24年
伝教大師天台宗を学んで帰朝する。
806 大同元年
3月17日桓武天皇崩御(70歳)平城天皇即位。
弘法大師真言宗を学んで帰朝する。
807 大同2年
住民、上人の仮庵に磐裂神を祀り、足尾郷の鎮守とする。
上人松木に方等寺、赤倉に竜蔵寺を建てる。
方等寺
磐裂神社
(日光市足尾)
竜蔵寺
(日光市足尾)
松木村は
廃村

国中旱天続き農民苦しむ、上人二荒山神社に雨乞祈願をなし霊験ありて、農民を救う。(73歳)
808 大同3年
上人中禅寺を女人結界の道場とする。
上人本宮と四本龍寺(紫雲龍寺)を整備し、山菅橋を架設する。
本宮神社 神橋 四本龍寺
809 大同4年
上人山菅橋の右岸に星の宮、左岸に深沙王を祀る。
神橋 星の宮神社 深沙王堂
810 弘仁元年
嵯峨天皇即位にあたり全国の神社に天下泰平を祈願せしむ。
上人山徒総出仕で四本龍寺、二荒山神社で天下泰平を祈願する。
四本龍寺に満願寺の称号を賜り、一山の惣号とする。
811 弘仁2年
坂上田村麿没す。(54歳)
814 弘仁5年
弘法大師「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑並序」を書く。(上人80歳)
816 弘仁7年
弘法大師高野山に金剛峰寺を建てる。
高野山 金剛峯寺

上人二荒山に三神を拝し、奥宮、中の宮、麓の宮を祀る。
男体山山頂奥院 中宮祠二荒山神社 日光山内 二荒山神社
817 弘仁8年
3月1日、上人満願寺に遷化(83歳)

日光市山内開山堂の隣
■現地の説明板・・・
●勝道上人(しょうどうしょうにん)の墓
日光開山の祖、勝道上人は仏岩で荼毘にふされた。当初上人の遺骨は、仏岩谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座のおり、開山堂が建てられ、遺骨もここに移された。五輪塔の台石には、「勝道上人の墓」と刻まれている。また、隣にある三基の墓は、上人の弟子のもの。
↓仏岩は勝道上人の墓の隣