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栃木県内のあちこちの風景を見ていますが、その中には土木遺産と知らず撮っているものがあります。土木遺産と知ったのは、土木学会関東支部栃木会のホームページを見てからです。
ここに掲載してあるものは、土木学会関東支部栃木会ホームページで紹介されているもので、私の手元にある画像を掲載しています。興味のあるところはこれから見てこようと考えております。※順不同です。
1.古河橋 (日光市足尾)
日光市足尾 古河橋
■説明板・・・古河橋(ふるかわばし)
この橋は、赤倉と本山(ほんざん)を結び、明治23年(1890)12月に完成した日本でも初期の道路用鉄橋として記念すべきものである。当時本山は足尾銅山の中心をなし、鉱業所、有木坑、選鉱場、社宅などがあり交通量も多大であったため、明治18年に木造の直利橋が架設されたが、明治20年4月8日、松木からの火災で焼失したのでこの跡にドイツ人の設計によりこの古河橋(形式、ボーストリング、ワーレントラス方式、長さ50m、巾4.6m)が架設されたものである。現在は老朽化も著しく歩道用として利用されており、隣に新古河橋が平成5年(1993)に架設された。
昭和58年12月   足尾町教育委員会

26.1.27 国指定重要文化財
2.間藤発電所跡 (日光市足尾)
日光市足尾 間藤発電所跡
・・・文字修正部分もあるが次のような内容です。
■説明板・・・●日光市指定史跡  間藤水力発電所跡
明治10年(1877)より足尾銅山を経営した古河市兵衛は、今までの銅山の動力源である、薪、木炭に代わるべきものとして、ドイツのジーメンス電気機械製造会社のヘルマン・ケスラー技師の勧めにより、はじめて水力発電にふみきり、明治23年(1890)12月、この地(上間藤)に原動所(水力発電)を完成した。この水力発電は日本初期のもので松木川上流(現在の足尾ダム下)と深沢川から用水の取入れを行った。
2.9kmの水樋はこの地の山頂の大鉄管に接続し、落水38mの水力によってトルビン式横水車を回転させた。400馬力の電力は、直ちに揚水機(坑内排水)捲揚機(立坑ケージ用)坑内電車、電灯などに利用、銅山近代化を強力におしすすめる力となった。名残りをとどめる直径1mの鉄管の一部が上の平がけ下にあり、原動所はこの下の渡良瀬川原にあった。
昭和53年3月30日  日光市教育委員会
3.黒部ダム (日光市栗山)
日光市栗山 黒部ダム
■説明板・・・●黒部ダム
黒部ダムは、大正元年(1912)に竣工したコンクリート重力ダムで、当時の発電専用ダムとしてはわが国最大の規模を誇るものでした。以来、このダムは、水資源の有効活用と電力の安定供給に寄与してきましたが、永年の使用により洪水吐きゲートなどが老朽化したため、昭和62年10月より大規模な改修工事に着手し、平成元年3月)1989)完了しました。このモニュメントは、永きにわたって活躍した同ダムの改修を記念して建てたものです。大きな歯車は、建設以来77年間使用した洪水吐きゲートのラック式巻き上げ機の一部です。また、前面の石碑は、大正の年代にこのダムに流れついた自然石を使っています。
4.鍵金橋 (日光市足尾)
日光市足尾 鍵金橋
■説明板なし・・・
鹿沼市から粕尾峠を越えた足尾地内 内の篭地区。内ノ籠川に架かっている橋。旧道であり、通行できない。新道からみるだけ。遠くからしか見えないので、全体像がわからない。昭和17年にできた鉄筋コンクリートアーチ橋だそうです。このあたりを日光開山の祖、勝道上人も修行中に通ったことでしょう。以前昭和50年頃、、鹿沼市と足尾町に路線バスの運行があったような記憶があるのですが、その当時この橋を通ったのでしょうか。考えただけでぞっとします。

■土木学会関東支部栃木会のHPには・・・
鍵金橋は、主要地方道鹿沼足尾線(現在は旧道)の足尾町鍵金地内を流れる内籠川に、昭和17年に架設された橋長25.9m、幅員4.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋である。
 平成2年、下流に新鍵金橋が架けられ、現在は通行止めとなっている。
鹿沼足尾線は、足尾町に入るための数少ない路線の一つであり、起源は奈良時代、勝道上人が古峰原高原で修行をする際に出流山から峰伝いに来て横断したのが初めという。アーチは充腹であり、内部は土砂を詰めた構造となっている。
5.境橋 (那須烏山市)
那須烏山市 境橋
■説明板・・・
那須烏山市の近代化遺産  境橋
■分類:交通・通信/道路橋
■所在地:那須烏山市宮原地先
■建造年:昭和12(1937)年
■構造形式:RC(鉄筋コンクリート)オープンスパンドレルアーチ
境橋は、主要地方道常陸太田・那須烏山線の那珂川に架けられた橋長112.5m・幅員6.1mの上路式RCオープンスパンドレルアーチ橋です。現在の橋は3代目で、初代は明治30年に舟橋が、2代目は大正9年に洋式木橋が架けられましたが、度重なる洪水による被害への対応から永久橋への架け替えが昭和10年の第39回通常県議会で決議されました。設計者は、関東大震災後の帝都復興局橋梁課長として隅田川橋梁群の設計・積算や、美橋と知られる聖橋など百数十橋を手がけた当時における橋梁設計の第一人者・成瀬勝武です。橋脚上には半円形のバルコニーが設けられるなど意匠性と希少性に富み、また、那珂川屈指の景勝地に調和した優美な景観から、平成19年土木学会選奨土木遺産にも認定されています。


●豆知識
■オープンスパンドレルアーチ
路面とアーチの間の部分をスパンドルといい、板や柱等によって間隙を設けた構造形式をオープンスパンドレルアーチと呼んでいます。
■全国のRCバルコニー付きアーチ
近代におけるバルコニー付RCアーチ橋は、兵庫県の武庫大橋、山形県の最上橋など、全国で数例しかありません。
■成瀬勝武著「弾性橋梁」
戦前土木名著100書に選ばれている「弾性橋梁」には、境橋設計書が31ページにわたり紹介されています。

●写真の説明
「雪の中の境橋」 小松原千穂さん 撮影
平成19年度残したい風景〜からすやまフォトコンテンスト〜入賞作品

●認定書
土木学会選奨土木遺産  認定書  境橋
右は全国に数例しかないバルコニー付きRC開腹アーチ橋で稀少性に富み景勝地に橋梁が融合した新たな地域の景観美を創出しています。本学会ではその歴史的土木施設としての高い価値に照らしてここに平成十九年度土木学会選奨土木遺産と認定致します
平成十九年十一月一日  社団法人 土木学会  会長 石井弓夫
6.第六号接合井 (宇都宮市)
宇都宮市 第六号接合井
■説明板・・・●第六号接合井
接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロメートル、標高差240メートルある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を弱めるために建設された施設です。この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が30メートル下がることに設けられ、全部で6箇所設けられました。これらの接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。
※登録有形文化財 第09-0150号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁
※土木学会選奨土木遺産 2005 宇都宮市水道施設群-第六号接合井
※煉瓦造。大正4年建築。

7.疏水橋 (那須塩原市 黒磯)
那須塩原市 西岩崎 疏水橋12
■説明板・・・
●建造物 疏水橋(そすいばし) 国指定重要文化財(附指定) 平成18年(2006)7月5日指定
この橋は、明治38年(1905)の那須疏水取入口変更工事にあわせて那須疏水にかけられたもので、そのあらましは次のとおりです。
@建設年 明治38年(1905)
A構造 石造単アーチ橋
B規模 幅約3.2m、長さ13.1m

那須疏水が開通した明治18年(1885)、西岩崎の集落に近いこの道に橋がかけられ、地元の人や疏水関係者等がよく利用しました。しかし、簡単な橋のため、時々修繕を必要としました。そこで、明治38年(1905)に永久橋をかけることとなり、那須疏水を管理する那須疏水普通水利組合によって疏水橋が造られました。当時としては大変豪華な橋で、その形から「めがね橋」とも呼ばれました。その後この道は、那須温泉と塩原温泉を結ぶ道路として整備され、交通量の増加に伴いコンクリートで幅を広げ、アーチ部分の下方は疏水の改修工事にあわせてせばめられました。平成7年(1995)、下流部に隣接して新しい橋がかけられたことにより、疏水橋は増設したコンクリート部分を取りはずし、原形に近い形で復元・保存されました。「疏水橋」と刻まれた角柱の石碑は、疏水橋の親柱(おやばしら:らんかんの端にある太い柱)です。その近くにある石碑は、この橋の完成を記念して建立されたもので、建設の経過が刻まれています。かつては数十メートル北西にありましたが、橋の復元と共に、現在の位置に移されました。
平成19年(2007)3月
文化庁・栃木県教育委員会・那須塩原市教育委員会
8.那須疏水旧取水施設 (那須塩原市 黒磯)
那須塩原市 那須疏水旧取水施設 那須疏水公園
■説明板・・・
●建造物 那須疏水旧取水施設(なすそすい きゅう しゅすいしせつ)
国指定重要文化財(一部附指定)平成18年(2006)7月5日指定

この取水施設は、水に乏しい那須野ケ原開拓地の飲用・水田灌漑(かんがい)等を目的に建設された那須疏水の施設で、明治期有数の規模を誇る貴重な土木遺産です。
そのあらましは次のとおりです。
@東水門(第一次・第三次取水口) 明治18年(1885)建設
※明治39年(1905)・昭和3年(1928)増設
A西水門(岩崎第二隧道(ずいどう)入口) 明治38年(1905)建設
B導水路(どうすいろ)・余水路(よすいろ) 明治38年(1905)建設
C一号護岸(ごがん)、二号護岸、東三号・西三号護岸 明治38年(1905)建設

那須疏水は、内務省直轄(ちょっかつ)の国営事業によって開かれたもので、安積(あさか)疏水(福島県)、琵琶湖(びわこ)疏水(滋賀県・京都府)と並び、日本三大疏水の一つに数えられます。ここ那須塩原市西岩崎の那珂川(なかがわ)右岸から取水し、千本松に至る約16kmの本幹水路、4本の分水路とそこから分かれる多くの支線水路が、約1万haに及ぶ那須野ケ原の開拓地をうるおしました。最初の取水口は、明治18年(1885)に那珂川の絶壁にトンネルを掘って造られました(第一次取水口)。この取水口には水量を調節したり、土砂の流入を防いだりする開閉施設がなく、大水等によって取水口がたびたび使用できなくなりました。そのため、明治38年(1905)に約200m上流に取水口を変更し(第二次取水口)、使用されなくなった第一次取水口は予備の水門として石積みが行われました。その後、川の流れが変わり、取水口は大正4年(1915)再び元の位置に戻されました(第三次取水口)。昭和3年(1928)には水量調節施設の設置、上部へのアーチ型の石積み等の増設が行われ、現在見られる石組の水門となりました。昭和51年(1976)、国営の那須野ケ原総合開発の一環として取水口が新設され(西岩崎頭首工(とうしゅこう)、第四次取水口)、かつての取水口は使用されなくなりました。旧取水施設は、当時の状態を良好に残しており、那須野ケ原開拓のシンボルとなっています。
平成19年(2007)3月
文化庁・栃木県教育委員会・那須塩原市教育委員会
9.逆木洞門 (宇都宮市 上河内)
宇都宮市上河内 逆木洞門
■説明板・・・●逆木洞門
宝暦4年(1754)逆木用水組合が設立されて以来、川除工事などは、公私双方により費用の支出を行って鬼怒川における出水の害に備えるなど最善の努力がなされていた。はじめ用水路であった西鬼怒川は次第に大きくなり水害は広がる一方になった。明治25年には、被害者一同3ケ村8ケ大字の代表として神山藤次郎・笹沼長平の両名により、知事、折田牛内に「西鬼怒川分水口逆木治水工事請願書」が出された。その後、明治29年に大洪水となったことがきっかけで、県当局は技士2名を派遣し、設計を立てさせた。よって、明治30年2月起工・翌31年竣工・請負人・亀田易平・大宮慶次郎・工費11万5千円。人夫延べ23万7千余人の厖大(ぼうだい)な工事として成し遂げられたのである。
宇都宮市教育委員会  高間木自治会
10.逆木用水 (宇都宮市 上河内)
宇都宮市河内 逆木用水
■説明板・・・  ●逆木用水(さかさぎようすい)のご案内
この看板の下を勢い良く流れているのが「逆木用水」です。逆木用水は「小倉米(こくらまい)等」で有名な米どころ約3500haの水田をかんがいする用水ですが、ここから約6km上流・塩谷町船生の佐貫観音(さぬきかんのん:国指定史跡)近くに造られた「佐貫頭首工(とうしゅこう):堰(せき)」から取り入れられます。鬼怒川右岸には、木杭や蛇篭(じゃかご)等で造られた4つの用水堰があり、高間木(こうまぎ)用水、逆木用水、根川用水、東芦沼用水を取り入れていました。洪水時に導水堤や堰が災害を受け、必要な水量の確保や施設の管理・普請に大変な苦労が必要でした。昭和20年代の半頃、五十里ダムや川俣ダム等洪水防止を目的とするダムの建設が進められるのを契機に、堰の代表者達は堅固な堰をつくりたいと「西鬼怒川土地改良区」を組織して対岸の5つの用水堰の代表者達と話し合い、国営(当時農林省)事業を推進することとして9用水堰の意向がまとまり、昭和28年(1953)には「鬼怒川中部土地改良区連合」が設立されました。

以来、国営事業は、昭和32年に着工して、佐貫頭首工と9ケ所の用水堰とを結ぶ21.5kmの導水路を建設し、昭和41年に完成しました。佐貫頭首工で取り入れられた用水は、トンネル等5.6kmの「導水幹線」で生まれる落差で「栃木県営風見発電所」が発電した後、鬼怒川左岸に開ける約5300haの水田を潤す市の堀用水や草川用水等の「東幹線水路」と逆木用水等「西幹線水路」とに分かれ、逆木用水は鬼怒川の底をサイフォン(暗渠(あんきょ))で渡って、ここで顔を出すことになります。この逆木用水は、下流の東京電力「西鬼怒川発電所」でも利用されています。逆木用水の旧取り入れ口は、この堤防上流端の岩山をくり抜いて作られていましたので、その洞門入口跡を見ることができます。鬼怒川中部土地改良区連合は、現在左岸の塩谷町大宮・赤沼用水・鬼怒川東部・釜ケ渕土地改良区と右岸の西鬼怒川土地改良区の5つで組織されています。
鬼怒川中部土地改良区連合
西鬼怒川土地改良区
11.真岡鐵道五行川橋梁 (真岡市)
真岡市 真岡鐵道五行川橋梁
12.穴川用水 (真岡市)
真岡市 五行川大前堰(穴川用水)
●五行川流域の主な用水整備の歴史・・・
▲市の堀用水・・・
鬼怒川の塩谷町佐貫頭首工から取水し、さくら市氏家町から高根沢東部・芳賀町・真岡市に至る延長42kmの水田の水源用水路です。当初は、正保3年(1646)から明暦2年(1656)までの10年を要し、延べ10万人を越える人力で完成したものです。特に奥平織部と山崎半蔵氏の功績は顕著です。現存の用水は、昭和37年(1962)に完成したものです。
▲穴川用水・・・
二宮尊徳先生の遺跡である大前神社東の大前堰を基点とし、二宮町物部地区を経て、筑西市奥田で小貝川に流れます。古来あった大前堰(元禄絵図記載)を二宮先生が文政10年(1827)に着工しました。現存の姿は昭和38年に完成したものです。
13.須花トンネル (佐野市 田沼)
佐野市下彦間 須花トンネル
■説明板・・・佐野市指定史跡 下彦間町須花
●手掘りの須花(すばな)トンネル 1本 平成6年2月21日指定
昔から飛駒(ひこま)、下彦間(しもひこま)方面から足利方面への交通には、険しい須花峠を通らなければならなかった。トンネルを掘って交通を便利にし、人々の苦労を救おうと決心した上彦間(現飛駒町)の戸長(こちょう:庄屋さん)田島茂平は、上彦間・下彦間・足利等の在住の協力者から資金援助を得て、明治14年(1881)工事を着手した。
しかし、当時のトンネル工事は、「げんのう」や「たがね」等を使う手掘り作業であったため遅々として進まず、資金はたちまち尽きた。しかしそれにもめげず、田島茂平は私財をなげうつなどし、明治22年(1889)1月、全長177mのトンネルを完成させた。時代に先駆けた発想でトンネルを掘った田島茂平の功績を顕彰する上からも、このトンネルは貴重である。
平成18年1月 佐野市教育委員会
14.那珂橋 (大田原市 黒羽)
大田原市黒羽 那珂橋 25.4.16
15.猿岩トンネル (那須塩原市 塩原)
那須塩原市塩原 猿岩トンネル26.12.5
16.晩翠橋 (那須塩原市 黒磯)
那須塩原市黒磯 晩翠橋26.11.18
17ポッポ通り (大田原市)
大田原市 ポッポ通り27.4.18
ウィキペディアには・・・
東野鉄道(とうやてつどう)は、かつて栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。黒羽 - 那須小川間は1939年に、西那須野 - 黒羽間が1968年に廃止された。会社は鉄道事業廃止後、社名を東野交通と改めバス専業となっている。
線路跡地のうち、西那須野駅 - 大田原駅付近手前までの全長4.2kmの区画は自転車歩行者専用道路として整備され、「ぽっぽ通り」という名称がつけられている。ぽっぽ通りにはホームや蒸気機関車などをモチーフとしたモニュメントや案内板が点在し、往時にはここが鉄道路線であったことを伝えている。その他の区画にも、橋台の一部が残っている鉄橋の跡地や、使われなくなったトンネルといった遺構を確認することができる場所も点在する。
東野鉄道の西那須野駅舎跡は、現在ステーションビルとなっている場所である。乃木神社前駅跡は、廃線後ホームなどのモニュメントが造られた位置ではなく、乃木神社参道を挟んだはす向かいの参道西側(西那須野駅側)にあった。
18.烏ケ森公園 (那須塩原市 西那須野)
那須塩原市西那須野 烏ケ森公園26.4.11
■説明板・・・
●烏森神社(からすがもりじんじゃ) 鎮座地 西那須野町三区町635番地
・・・途中省略・・・
●由緒沿革
烏森神社の前身、烏ケ森稲荷神社は、平安時代の延喜2年(902)、上石上村(現、大田原市)の農人田守(たもり)という人が、烏ケ森の丘の上に祠(ほこら)を建て、豊受姫命(とようけひめのみこと※神社データベースには 伊邪那岐命の孫姫にあたる神。豊受大神(とようけのおおかみ)とも尊称し、皇太神宮の外宮の御祭神。天照大神のお食事を司る神で、「宇気」は宇迦之御魂命(倉稲魂命)、保食神(うけもちのかみ)、大気津比売命(おおけつひめのみこと)などの「うか」「うけ」「け」などと同じく、食物・稲の霊を意味するもの。倉稲魂命と同一神とする説もある。」とありました。)を祀り、五穀豊穣を祈ったことに始まると伝えられています。創建以来、那須野ケ原鎮護の神として、このあたりを入会秣場(いりあいまぐさば:共同の草刈り場)として利用した周辺54ケ村の信仰、殊に厚く、祠が守られてきたといわれます。

鎌倉時代初めの建久4年(1193)、将軍源頼朝の那須野巻狩の際、この丘を展望所として、総指揮を執ったと伝えられ、神社の名は関東一円に広まったといわれます。江戸時代から明治の初めにかけては、上石上村の村社として守られてきました。
明治12年(1879)11月14日、後に総理大臣になられる、伊東博文と松形正義が、地元開墾発起人の印南丈作、矢板武等の熱意ある要請に応え、烏ケ森上から那須野ケ原を視察、開拓事業の協力を約し、その成功を祈願したといわれます。
明治14年(1881)8月6日、明治天皇の御名代として、有栖川熾仁(たるひと)親王殿下が神社にご参拝、那須開墾社の印南、矢板等の開拓の労を賞せられ、松を御手植えになられました。

明治15年(1885)2月、那須開墾社は肇耕社(ちょうこうしゃ※三島農場)の三島通庸(みちつね)にも呼びかけ、上石上村と共に浄財を募り、社殿建築に着手しました。
明治18年(1888)、社殿竣工、4月5日、開拓者の氏神として、栃木県知事樺山資雄外、来賓多数参列のもと遷宮式(御神体を移す式)を盛大に執り行い、烏ケ森稲荷神社は「烏森神社」となりました。同時に神社を中心に松と桜を奉納植樹し、公園化が図られました。
明治27年(1894)5月6日、松形正義、佐々木高行両伯爵、佐藤暢知事等の臨席を得て、開拓者500余名参列のもとに、那須開墾社の開墾成業式が神前で盛大に行われ、開拓事業の成功を神社に奉告しました。以来、烏森神社は「開拓のおやしろ」として崇敬され、現在に至っております。
平成11年(1999)9月吉日
烏森神社社務所
19.那須野観象台 (那須塩原市 西那須野)
那須塩原市西那須野 那須野観象台26.12.5

■説明板・・・
●史跡 観象台(かんしょうだい) 西那須野町指定文化財 昭和47年12月1日
この塚は、明治初年の我が国における、近代的三角測量の貴重な遺跡である。近代国家を目ざした明治新政府は、国土の近代的測量を、お雇い外人の指導で始めることになった。明治8年(1875)には、イギリス人のマクウェンやヘンリー・シャボーの指導のもとに関東地方の測量(関八州(かんはっしゅう)大三角測量)が着手された。
この測量には、平地の2地点を結ぶ直線(基線)を設け、その長さを極めて精密に測量する必要があった。
この一帯は、江戸時代から明治10年代(1880前後)にかけて、那須野ケ原と呼ばれる平たんな原っぱであった。そこで、この地が相模原(神奈川県)と共に基線測量の場に選ばれた。
那須野ケ原における基線(那須基線)のあらましは、次の通りである。

@那須基線北点 西那須野町千本松(せんぼんまつ) この観象台
A那須基線南点 大田原市実取(みどり)
B測量の時期 明治11年4月9日〜6月11日
C二点間の距離 10,628.310589m

当初、観象台には木のヤグラが組んであり、明治10年代の開拓や那須疏水測量の際、かっこうな目標物となり、人々に親しまれた。北点と南点を結んで開拓道路の縦道(たてどう)がつくられ、現在はライスラインの一部となっている。
※なお、塚のわきの水準標は50mほど南東にあったものである。
平成2年(1990)2月 那須塩原市教育委員会
20.青木周蔵那須別邸 (那須塩原市 黒磯)
那須塩原市黒磯 青木周蔵那須別邸19.10.5
■説明板・・・
●青木周蔵那須別邸
青木周蔵(あおきしゅうぞう)(1844-1914)は、ドイツ公使や外務大臣・駐米全権大使などを歴任した外交官で、特にドイツ翁と称されるほど長くドイツに滞在した。
周蔵は、ドイツの貴族地主に憧れ、明治14(1881)年ここに青木農場を開設した。この建物は、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)に本邸を持っていた周蔵の那須別邸として、明治21年(1888)年に建築された。当時は中央の2階建ての部分だけであったが、その後増築を重ね、明治42(1909)年に現在の形となり、地域の人々から青木邸と呼ばれ、親しまれてきた。

設計者は松ケ崎萬長(まつがさきつむなが)(1858-1921)男爵で、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡り、12年間滞在して建築を学んだ建築家である。帰国後、ドイツとの建築技術交流に尽力し、ドイツ風建築を設計した。この青木邸は、わが国に遺る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋根に様式の構法を採用し、外壁に鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもつ貴重な近代建築である。栃木県は専門家による委員会を設けて、平成8年から解体調査を行い、平成10年3月に、もとの位置から南東側に約50m移転して復原・改修したものである。

国指定重要文化財
21.早乙女の桜並木道 (さくら市 喜連川)
さくら市喜連川早乙女の桜並木道22.4.18

この並木路の詳細は分かりません。県道114号線は佐久山喜連川線。喜連川市街に入るため田んぼの中に土を盛り上げて道を造ったので土木遺産なのでしょう。

※さくら市のホームページには、「大正14年の春に青年団の奉仕作業により桜の若木が植えられ、昭和11年にはお丸山公園の設置に伴い簡抜してお丸山へ移植された」とあるので、道路そのものは、大正14年より以前に出来ていたようです。
22.八雲橋 (栃木市)
栃木市 八雲橋 25.3.12
錦着山の東側に流れる用水に架かっている八雲橋です。橋の東側はお店の駐車場になっており、フェンスが張り巡らされています。通常この橋を利用することはないでしょう。石積みのしっかりとした橋です。
23.小倉堰 (栃木市 西方町)
栃木市西方町 小倉堰 25.3.26

管理事務所でいただいた冊子

小倉堰と思川(オグラゼキトオモイガワ)   (私家版)
河川の名称とその流域
小倉堰から北西に、足尾山系や日光連山が望めます。足尾山塊の谷々から流れ出す河川は、大芦方面からの大芦川が久我方面からの荒井川を合流し南下する。それに、粕尾方面から粕尾川と粟野方面からの粟野川が合流して粟野川となり、これに南摩川を合わせる。
そうした北から流れてくる大芦川と、西から流れてくる粟野川が大きくまとまって、小倉川となります。
川の名称は、はじめ清瀬川、次に小倉川、そして現今は建設省管理によって、昭和40年(1965)1級河川に昇格されて、思川と名称をかえました。
24.真岡鐵道小貝川橋梁 (益子町)
益子町 真岡鉄道小貝川橋梁 26.2.22
25.中橋 (足利市)
足利市 中橋 27.3.24
26.渡良瀬橋 (足利市)
足利市 渡良瀬橋 27.3.24
27.鬼怒橋 (真岡市)
真岡市 鬼怒橋 21.6.13
28.与良川 機場 (小山市)
小山市 与良川 26.3.28
29.田母沢御用邸記念公園 (日光市)
日光市 田母沢御用邸記念公園27.4.16
●入園パンフレットには
敷地面積11900坪、建築規模1352坪。
日光田母沢御用邸は1899(明治32)年に大正天皇(当時の皇太子)のご静養地として造営されました。
現存する本邸建物は、明治・大正期に建てられた御用邸の中でも最大規模の木造建築で、その姿から建築技術や伝統文化をかいま見ることができます。ご来園の皆様には、四季折々の庭園と、大正期に蘇った日光田母沢御用邸の100年におよぶ歴史と文化をご堪能ください。
日光田母沢御用邸は、この地にあった民間住宅(小林家別邸)に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州藩徳川江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、新たな部分を加えて造営されました。その後の小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、1918〜1920(大正7〜9)年にかけて大規模な増改築が行われ、現在の姿になりました。その結果、江戸・明治・大正時代の建築技術や、建てられた時代や用途によって異なる、いくつかの建築様式を見ることができます。

また、明治以降の多くの公共建築が石やレンガを用いた洋風様式で建築される中で、木造の利を活かした和風建築で建てられ、その後近代建築に大きな影響を与えました。
一方、和風建築の形態でありながら、一部に絨毯やシャンデリアなどを用いた和洋折衷の生活様式が採り入れられています。明治維新以降の西洋化の中にあって、和風建築の伝統を活かしながら西洋文化との融合を図った本邸は、近代和風建築につながる貴重な資料を提供しています。
入園料大人500円。
30.神橋 (日光市)
日光市 神橋27.4.16
31.方等滝砂防堰堤 (日光市)
日光市 方等滝砂防堰堤24.5.31
第一いろは坂剣が峰展望所から見える大きな滝のようなものは、方等滝すぐ上にある砂防ダムである。幅広い水が落ちているところであり、方等滝はその下で全体がちょっと見えにくい。
32.県庁堀 (栃木市)
栃木市 県庁堀18.11.17
■説明板・・・
●栃木県指定文化財史跡 平成8年8月12日指定
県庁堀(けんちょうぼり) 附 漕渠(そうきょ:堀のようなもの)明治4年(1871)廃藩置県のあと、下野国は栃木県と宇都宮県に分かれ、ついで明治6年栃木県は宇都宮県を合併し、この地に栃木県庁が置かれ、栃木町は政治・経済・文化の中心として栄えました。県庁には幅約6mの堀を東西約246m、南北約315mの矩形(くけい:長方形のこと)にめぐらしました。巴波川(うずまがわ)との間には運河がつくられ、敷地内には舟の荷揚げ場が設けられました。このような例は、全国にはありません。その後、明治17年県令三島通庸(みしまみちつね)は、強引に県庁を宇都宮に移しましたが、県名は栃木県としてそのまま残りました。
栃木市教育委員会
33.赤津川河川改修 (栃木市)
栃木市 小根澤登馬雄翁胸像26.4.2 
錦着山山頂にあります。赤津川河川改修をした方面を向いて建てられています。
赤津川河川改修に尽力された方です。
34.小倉川用水 (鹿沼市)
鹿沼市 記念碑には次のように刻まれています。
●小倉川沿岸用水幹線改良事業
竣功記念碑
栃木県知事 従四位・勲四等 半井清書
●碑文
下野国稲葉村地方は地味肥沃管内に冠たり然るに大正12年関東大震災以降唯一の水源たる小倉川の水量著しく涸渇し稲葉村壬生町及南押原村に渉る水田587町歩は年々旱害(かんがい→ひでりのこと)を蒙り其の減収巨額関係町村の疲弊困憊見るに忍さるものあり滋(さんずいがない。)に於てか官民協力以て県営用水幹線改良事業を起■延長1000間の一大集水渠開鑿(しゅうすいきょかいさく?)の計畫(計画)を樹て事業費拾?五萬円を以て昭和6年3月28日起工し仝(どう→同)8年3月31日竣功したり今や湧水豊富如何なる旱魃(かんばつ)と雖も(いえども)用水不足の惨を免かれ(まぬがれ)農業の改良発展に資するところ亦大なるへく後世子々孫々其の恵■を享受するを得へし之れ則はち事業竣工に際し記念の為の此の碑を建つる所以(ゆえん)なり

上都賀郡南押原村・下都賀郡稲葉村 小籔耕地整理組合
栃木県耕地課長 山元昇 撰文

昭和8年5月
建碑寄贈者 工事請負人 田嶋組
同  日本ヒューム管株式会社

●正確ではありませんが、この様な内容です。碑文はカタカナになっていますが、読みにくいのでひらがなにしました。明治6年に栃木県が成立しているのに、昭和8年頃に下野国という名称を使っていたんですね。国道293号線を走っているときに、異様な建造物を何度となく見てはいましたが、今回見てきて納得しました。竣功・竣工と使い分けていますが、意味は同じだそうです。
35.足尾砂防ダム (日光市足尾)
日光市 足尾砂防ダム
■説明板・・・
●わたらせ川 源流の碑
渡良瀬川は、ここ足尾砂防ダムより約12kmさかのぼった松木川上流の皇海山(標高2143m)に源を発し、群馬県大間々町まで険しい渓谷を流れ、桐生市、栃木県足利市、佐野市等の平地を流れて茨城県古河市で利根川に注ぐ、全長107.6kmの河川です。ここ足尾町には、江戸時代(1610年)に開かれた足尾銅山があり、明治時代には、わが国の銅の半分近くを生産するなど、昭和48(1973)年の閉山までの間、日本の発展に大きく貢献しました。町には、銅山の歴史のなごりである、観光名所や四季を彩る自然の宝庫があり、たくさんの人々が訪れています。
しかし一方で、足尾の山は山火事や製錬による煙害で、松木川沿い等の沢筋は緑を失いハゲ山になりました。このため、銅山や国、県により防災対策が続けられ、草や木を植える緑の山づくりの治山事業や土砂災害を防ぐ砂防事業が行われています。また、足尾砂防ダム(高さ39m、長さ204.4m、堤体立積101,700m3、計画貯砂量500万m3)は、昭和22(1954)年のカスリン台風、翌年のアイオン台風による土砂災害により計画され、昭和25(1950)年に着工し、昭和29(1954)年に完成した、わが国最大級の砂防施設です。
この地を源流として流れる渡良瀬川が、安全で清らかな流れとして、これからも人々の心のふるさととして親しまれることを願い、この地に源流の碑を建立しました。また、皇海山頂上には姉妹碑として水源碑が建立してあります。
平成6年10月 渡良瀬川水源碑設置委員会
36.五十里ダム (日光市 藤原)
日光市五十里ダム26.2.6
37.海尻橋 (日光市 藤原)
日光市海尻橋26.2.6
38.鬼怒川 浜子取水堰 (日光市 藤原)
日光市藤原 竹之沢発電所(浜子取水堰)21.11.7
39.今市浄水場 (日光市 今市)
28.11.7
宇都宮市
今市浄水場
40.釣地橋 つりちばし (足利市)
27.3.31
足利市  稲岡観音堂
足利市稲岡地区に大きな観音堂がある。この観音堂に行くには、この釣地橋を渡り、仁王様のいる山門をくぐり、観音堂へとたどりつく。参道途中には龍泉寺にいくことが出来る道がある。龍泉寺にはとちぎの名木100選に指定された樹齢800年の古木のカヤの木がある。
さて、この稲岡観音堂に向かう参道には、ため池らしきところに石造の橋が架けられている。たぶん地元産の石でつくられたと思われるが、あとで調べるが、人しか渡ることのできないような橋です。
41.イタリア大使館別荘記念公園 (日光市)
■説明板・・・
●イタリア大使館別荘記念公園 総合案内
▼開園期間 4月1日から11月30日
▼休館日 毎週月曜日 ※祝日又は県民の日(6月15日)の場合は翌日。ただし、7月20日〜8月31日までは無休。
・・・途中省略・・・
▼公園案内
中禅寺湖畔は、明治中頃から昭和初期にかけて、各国の大使や政府高官など国内に居住する外国人の別荘が立ち並ぶ国際避暑地として賑わった歴史を有する地域です。「イタリア大使館別荘記念公園」は、中禅寺湖の自然と歴史に親しむため、中禅寺湖周回線歩道の利用拠点として整備したものです。園内にある建物は、昭和3年(1928)に建てられ、平成9年(1997)までイタリア大使館別荘として使われていたものを、一般公開するために、全面改修したものです。

■案内板・・・
●イタリア大使館別荘記念公園 総合案内
湖畔に建つ本邸と、国際避暑地歴史館(旧称・副邸)の2棟は、アントニー・レーモンド(チェコ生まれのアメリカ人建築家)の設計によって、昭和3年に建てられたものです。平成10年に栃木県が買収しましたが、基礎部を中心に傷みが進んでいたため。平成11年度に改修工事を実施しました。
建物の内・外装にスギの皮を大胆に使った、ほかに見られない個性的な建築物です。
ここから下は土木遺産の指定にはなっていません。参考に掲載しておきます。
茂木町 木須川の洞門
■説明板・・・
●木須川の洞門
この洞門は茂木町牧野と小深の境界を南流する木須川の蛇行部をカットする形で掘削された河川のトンネル。木須川は那珂川中流に、北から注ぐ小河川。この中流域は河床が緩慢に隆起したので、入蛇行の地形が多い。木須川自身もこの付近で大きく蛇行し、那珂本流にも近いので、後者の泥濫(氾濫のこと?)時には逆流して来て被害が大きかった。そこで小深等の住民が組合を作り、長峰山の下を潜る洞門を計画。事業費4424円を集めて、明治44年(1911)工事開始、大正2年ようやく完成。その間安山岩質の硬い岩石であったので難行。火薬等を使ったので、死者1名、負傷者も出た。規模は長さ47m、幅15m、高さ2.6mであった。その結果水田1.5haの美田を得、道路も改修され、河北の農民に多大な恵みをもたらした。大正6年には東方に記念碑が建った。
砂防塔 (日光市)
日光市 砂防塔 26.4.16
■説明板・・・
●砂防(さぼう)と地域の発展
この大谷川(だいやがわ)は華厳の滝から始まり、途中多くの渓流を合わせて旧日光市を縦貫し旧今市市で鬼怒川に合流しています。その水は生活、農業、発電等の用水に利用されて私たちにとってかけがえのない大切な資源となっています。また、魚や水生生物を育み訪れる人々の心にやすらぎを与えてくれます。しかし、ひとたび豪雨にみまわれると、山腹(さんぷく)は崩れ(くずれ)土石流(どせきりゅう)となって膨大(ぼうだい)な土や石を押し流して凶器と化し、この地域に古くから大被害を与えてきました。みなさんがお立ちになっている付近は1662年(寛文(かんぶん)2年)以降幾度となく洪水で濁流が思いのままに流れたところです。その後絵図のような砂防工事が行われ、河原であったこの地に立派な運動公園がつくられ、レクリエーションの場として生まれ変わったのです。砂防工事がされなかったらこのような施設もなく、川沿いの土地を有効に利用できなかったでしょう。
「砂防なければ日光なし」(初代日光市長 佐々木耕郎氏の言葉)
栃木県日光市 国土交通省日光砂防事務所
 
砂防関係者の聖地ですね。

■顕彰碑 碑文・・・
●日光の河川は、古くは天長4年(824)、天文年中(1532-1534)、寛文2年(1662)近くは明治35年の大洪水など、しばしば洪水の土石流による大災害をもたらし、その都度沿岸住民は多数の死者を出し家屋、田畑、橋梁を流失するなど甚大な被害を蒙ってまいりました。水源の荒廃、河岸の崩壊は放置しがたい状況となり、元禄以降いくたびかその対策が講じられましたが、特に大正7年8月21日稲荷川第一堰堤の着工以来、政府・県の砂防対策はとみに厚きを加え、関係者歴年の御努力のもと、堰堤工、床固工、山腹工、護岸工、流路工、洪水調節施設など近代土木技術の粋を駆使した施工を累ね日光の河川は今日見る通りの近代河川に生まれ変わり沿岸の開発も可能となったのであります。けだし沿岸の浴する恩恵は計り知れぬものがあります。よってわれわれは、国土の大水源としての日光の治水砂防事業の重要性を再認識してその百年の大計の貫徹を期するとともに、往年の洪水犠牲者ならびに砂防工事施工殉職者に慰霊の誠を捧げ、日光砂防事業関係者多年の労苦に感謝してその御功績を顕彰するため、ここに大谷川産の名石をえらんで砂防塔を建立するものであります。
佐々木耕郎氏胸像 (日光市)
日光市 佐々木耕郎氏胸像 26.4.16
三島通庸紀恩碑 (那須塩原市 塩原)
■塩原温泉街の風景 国道400号線 七ツ岩近く。
■説明板・・・
●三島通庸紀恩碑
この紀恩碑は、明治17年、栃木県令三島通庸が西那須野から塩原、更に会津に通ずる今の塩原街道を開削し、その功績に感謝するために、明治33年に建てられたものである。塩原は幕末までは、宇都宮藩領で塩原への本道は西廻りと称し、高徳、藤原、新湯を経由したものである。この頃の年間湯治客は6000余人であった。東廻りと称せられる、塩原街道は、関谷より狭小な馬道であり、新道の開削には、渓谷、断崖に阻まれた難所であったが、県令自から監督し橋をかけ、岩を削りその大工事を完成させたのである。
・里程 三島〜古町 19.4キロメートル
・人夫 124,400人
・費用 献夫の外 48,400余円
・工期 5ケ月
この新道の完成により交通は、益々便利になり明治30年頃には、年間湯治客は3万人をこえ、名士の別荘は30余軒に及んだ。明治36年、三島家は、別荘を皇室に献上、これより塩原御用邸として、新御殿も造営し大正天皇は毎夏御愛用されました。現在は、この街道も「塩原バレーライン」として整備され、全国有数の観光温泉郷として発展した。三島通庸は、尾崎紅葉、奥蘭田とともに、塩原発展の三恩人として奉られ、毎年9つき18日には感謝祭が行われる。
塩原町

■碑文説明板・・・
● 故正三位勲二等子爵三島通庸君紀恩碑

吾が大君の知食す国内に山はあれど川はあれど此の塩原の如く雄々しく聳え潔く流るるは稀なり。况や(いわんや)紅葉の美しき温泉の良きあるをや予一たび游びて目驚き二たび遊びて帰るを忘れ遂に亭を構えき。此地固より聞えざりしに非ず然れ共その道たる巉巌峙ち(※ざんがんそばだち:切り立った険しいがけ。高くそびえた岩。岩・山などが,ほかよりひときわ高くそびえる)荊棘(※けいきょく:イバラなど、とげのある低い木。また、そういう木の生えている荒れた土地。)遮り馬すら容易く進まざりき。今や足地を踏まずして到り着く、かかる便利を与えしは誰ぞ。是予が莫逆(※ばくぎゃく:非常に親しい間柄)の友たりし故正三位勲二等子爵三島通庸君なり。君が在りし日予この語を以て君に謝せしに、君は曰へりき。兄等の発起に係る日本鉄道の那須野を過ぐるに非ざりしせば、この便も亦徒ならむと。嗚呼君は謙遜の人なりき。君が修道に功有りしは豈ここに止まらんや東北の諸県に令たるに当り、富国強兵の基は産業に在り、産業を盛にするは道路運搬の便を得るにありとし、拮据十年の間新に開き、旧きを修めし、其長さ者凡三百五十里幅四間より六間に及べり。此の塩原の道路も若松に通ずる国道たらしめむが為に開きし也。且つ橋を架くる百八十、墜道を穿つ十、なかにも彼の万世大路と名を負へる栗子山の墜道は開闢以来の大工事、君ならずして誰かは之を成し得べき。其も猶功を時の内務卿に帰したりき。君は此の謙遜の美徳に富めりしのみならず敬神尊皇の念飽くまで深く、明察果断、比類なき人なりき。君天保六年六月朔日薩摩国鹿児島なる高麗町上の園に生れ、明治二十一年十月二十三日東京八重洲町なる警視総監官舎に薨じぬ。至誠と精励とを以て君が此の間に立たりし赫々たる功業は史家既に詳伝として千載に朽ちざらしめたり。今また贅せず君は玩物衷志の誠を思ひ、心を花月に寄すること無かりしも、この塩原の風景は甚愛すべしとし晩年菟裘の営み有りしを工事を督する中に病に罹られしこそ傷ましけれ。思うに君が英霊は必この地に留まらむ。里人君が徳を慕ひ、胥議りて碑を天狗巌の下に建て銘を余に乞へり。乃一首を詠して之にかふ

 からくして きみがひらきし しほはらの
 やまちはたえじ よろずよまてに

明治33年3月21日
枢密顧問官兼御歌所長正三位勲一等 男爵 高崎正風撰文
華族女学校教授御歌所寄人正七位 阪 正臣書写
元帥陸軍大将大勲位功二級 彰仁親王題額
山縣有朋記念館 (矢板市)19.12.2

3・山縣有朋記念館(上伊佐野)
平成2年1月26日県指定文化財。
明治42年建築(大正13年小田原より現在の地に移築)
山縣有朋記念館は、有朋公晩年の別荘で、純然たる洋風建築である。本建築は、有朋公在世中に古稀庵(こきあん)内に建築された居住の建物としては唯一の遺構である。現在は、記念館として開館している。
※古稀庵(こきあん)は、1907年(明治40年)に、神奈川県足柄下郡大窪村(現:神奈川県小田原市板橋)に建てられた、政治家・山縣有朋の別荘。