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釈迦堂殉死の墓 
「殉死の墓」は初めて見学いたしました。大きな墓石には圧倒されました。
なんどとなくこの隣の国道120号線を車で通過し、日光中善寺湖、湯元方面に遊びに行っておりましたが、今回は徒歩で「日光まるごと見学」をするために歩いたので見学することができました。一度は日光を徒歩で散策・見学するのが良いと思います。
近くには
■ 釈迦堂■ 八幡神社■ 延命地蔵尊■ 花石神社■ 青龍神社■ 金谷侍屋敷■ 日光奉行所跡■ 日光真光教会■ 田母沢御用邸記念公園があります。
■説明板・・・
●栃木県指定史跡 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓(しゃかどうじゅんしのはか および ふだいかしんのはか)24基

(東西43m、西側38m、南側12m、北側16m)
所有者 輪王寺 昭和56年10月27日指定
本史跡は、雄大な女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する栃木県指定有形文化財(建造物)釈迦堂の西側にあり、総数24基の墓碑のすべて釈迦堂本堂に東面して整然と並んでいる。これらの墓碑は、江戸時代には、前・中・後の3列で、前列(5基)が徳川三代将軍家光の殉死者5名の墓碑、中列(12基)と後列(7基)が初代将軍家康・二代将軍秀忠の譜代家臣の墓碑であった。しかし、明治31年(1898)、田母沢支流の根通川の水を田母沢御用邸に引く用水工事のため、後列の7基が前列右側に移され、現在の2列になった。

○殉死の墓(5基)
慶安4年(1651)4月20日、徳川三代将軍家光の死に際して、殉死した側近5名の墓碑である。殉死したのは堀田正盛(玄性院殿、老中・下総国佐倉城主)、阿部重次(芳松院殿、老中・武蔵国岩槻城主)、内田正信(里明院殿)、三枝守恵(静心院殿)、奥山安重(真證院)の5名である。墓碑は、前列中央から左端までの5基が、この順で並んでいる。殉死の理由はそれぞれにあったが、家光から特別な恩顧をうけており、いずれも番方の頭(親衛隊隊長)を勤めていたことも見逃せないところである。殉死は、一度に有能な家臣を失うことであり、後継者にとっては大きな痛手となることから、寛文3年(1663)四代将軍家綱の時代に、幕府は殉死を禁止し、江戸時代を通じて、この堀田らの殉死が最後となった。なお、平成9年9月の保存整備工事の際、殉死した5基の墓から、分葬された遺骨が発見された。

○譜代家臣の墓(19基)
殉死の墓5基を除く19基は、初代将軍家康・二代将軍秀忠に仕えた重臣の墓碑である。これらの家臣の墓碑は、当初東照宮奥の院の傍にあったが、寛永13年(1636)、家康の21神忌の際に、仏岩谷にあった慈眼大師天海大僧正創建の妙道院に移された。さらに4年後、妙道院とともに現在地に移転した。
栃木県教育委員会・日光市教育委員会

三代将軍家光の死に際して、殉死した側近5名の墓碑と、初代将軍家康・二代将軍秀忠に仕えた重臣19名の墓碑です。