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●益子町の風景    栃木県芳賀郡益子町
綱神社(つなじんじゃ)
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20.1.26
地蔵院・・・地蔵院本堂・・・地蔵院観音堂・・・地蔵院イトヒバ・・・地蔵院菩提樹・・・宇都宮歴代城主の墓所
尾羽の里・・・鶴亀池・・・綱神社・・・大倉神社・・・海音坊跡・・・西念坊跡・・・お昼のところ
■説明板・・・
●大羽地区の文化財について
○国指定重要文化財 綱神社本殿 1棟
桁行3間(4.56m)梁間1間(1.97m)三間社流造 茅葺(かやぶき)

本殿は、地蔵院本堂とほぼ同時期の建立と推定される。勾配の大きい茅屋根に対し柱の木割は細く軸部向揺柱の大面とり、頭貫の端の彫刻等は室町期の特徴を顕著に表している。特に、勾欄(こうらん)、脇障子、扉装置などは優美であり、総体素木造りの整った形態である。(昭和37年6月21日指定)
■説明板・・・
●貞綱公頌徳碑(さだつなこうしょうとくひ)
宇都宮八代城主貞綱公は、従五位上 下野守兼三河守、備後守検行引付衆で、文武両道に秀れ且つ智略に富む武将にして、弘安4年(1281)蒙古の元のフビライが数十万の兵を率いて九州に来冠した時、歳16才にして北条時宗の命を受けて総大将となり、諸国の兵5万を集めて九州博多に向かった。この時既に伊勢神風(暴風)吹き荒れて、元の兵船皆滅して一人の還るものがなかった。深慮ある貞綱公は、師をかえさず益々武備を固め、再びかかる災の起らぬようにと博多海岸に石塁を築いて防備に当たったので、元も二度と我国の周辺に伺うことはなかった。その石塁は今なお博多海岸に延々と存続し、貞綱公の遺徳永遠に伝えられている。明治28年(1895)10月、宇都宮家の旧家臣相図って、貞綱公の偉大なる功績を永久に顕彰し、崇敬標示たらしめんとして、撰文を帝国大学教授内藤氏に、篆額を前神祇官事務総督白川資訓氏に、書蹟は前多古藩知事久松勝慈氏に依頼して、地元は勿論岩瀬、笠間、水戸、日立周辺まで、宇都宮家と縁故者をたどり浄財を募って、この頌徳碑を建立するに至った。これに応じた者1047名、裏面にその芳名が刻記されている。石材は仙台石を用い、台石は大羽川豆田にあった巨石を運んだものである。碑面の高さ3.53m、幅1.8m、台石の高さ1mである。
昭和53年5月31日
上大羽文化財保存会
※石塁・・・元寇防塁1933年国指定史跡になる。
宇都宮貞綱公開基の興禅寺(開基・・・仏寺創建の際、財政的支持を行う世俗の人。特に禅宗で、開山と区別していう。
宇都宮市興禅寺の宇都宮貞綱公像
宇都宮市清巌寺の鉄塔婆の説明板・・・
鉄塔婆 清巌寺