■むかしの下加園村   
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●下加園村
川上は上加園村と接し、東は下日向村、南は野尻村に接する。「慶安郷帳」では田180石余・畑18石余、他に興源寺領7石とある。
興源寺の薬師如来像の銘に貞和5年(1349)「賀園郷」とある。興源寺は山号満目山、曹洞宗(本尊正観音)で宝徳2年(1450)の創建と伝える。元禄9年火災により焼失、その後現在地にうつる。
●下加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には上加園村とあわせて賀薗郷と称された。
近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領となり明治維新を迎えた。
「元禄郷帳」による石高は612石余。戦国期に築城された加園城のあった竜ケ谷山から石灰石が掘り出され、江戸時代を通じて、石灰石を焼き上げた石灰の生産が村にとって重要な生業の一つであった。

■むかしの上加園村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●上加園村
村の中央を荒井川が流れる。川上は下久我村、川下は下加園村。永禄元年(1558)城主渡辺右衛門尉が神園神社を修理して別当宝蔵院を建てた。「慶安郷帳」では田124石余・畑289石余とある。
●上加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には賀薗郷と称された。

近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領の相給村となった。

このときの知行分けは集落単位にされた形跡が認められる。「元禄郷帳」による石高は413石余。

参考
慶安郷帳  1648年
元禄郷帳  1701年
天保郷帳  1834年
■むかしの下久我村   
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●下久我村
村の中央を荒井川が流れる。上流に上久我村、下流に上加薗村がある。「慶安郷帳」に田98石・畑320石余・普門寺領2石がある。日光御神領で御飾竹52本を納めている。嘉永6年(1853)から報徳仕法が実施された。同年の家数92軒・人数466人・馬46疋で総反別八〇町五反余のうち一八町二反が荒畑となっている。村にある常真寺は所の領主久我民部大輔光綱の菩提を弔うため元亀3年(1572)に建てられたという。
●下久我村の概要
足尾山地石裂山の東麓にあたり、大芦川の支流である荒井川の中流域に位置する。荒井川は村の中央を北西から南東に流れ、近世期は都賀郡に属し、もとは上久我村と一村であった。「慶安郷帳」にのる二筆の久賀村のうち幕府領分が当村にあたるとみられており、これによれば田98石余、畑320石余である。元和6年(1620)には徳川秀忠の寄進により「久加村」の一部が日光神領になった。当村の場合、延宝元年(1673)には日光神領であったことが知られる。以後、日光神領として幕末に至った。宝暦期には朝鮮種人参の栽培がおこなわれている。また村内には荒井川に堰が設けられていたことが窺われ、周辺地域の者を荷主として上久我村から津出しされた材木筏が通過している。寺院は真言宗普門寺、曹洞宗常真寺がある。久我神社は近世期上下久我村の惣鎮守であった。正徳期までは、「久我村鎮守明神」と称しており、享保期に久我大明神と称すようになった。
参考
慶安郷帳  1648年
元禄郷帳  1701年
天保郷帳  1834年 
■むかしの上久我村   
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●上久我村
古くは下久我村と一村。「日光山常行三昧堂新造大過去帳」には「久賀郷」とあって宇都宮忠綱が日光山に寄進、している。元和6年(1620)徳川秀忠は久加村の内320石余を日光山に寄進している。嘉永6年(1853)、家数158軒・人数770人馬69疋・反別一一八町四反余とある。村には修験道の霊場石裂山(加蘇山神社)がある。山頂に摂社の月山社(祭神月読命)がある。社伝によると開基は勝道上人といわれる。「日本三代実録」元慶2年(878)によると、下野国加蘇山神に従五位下がさずけられている。江戸時代には御師が5人いた、と記録にある。
●上久我村の概要
大芦川の支流である荒井川の上流域に位置する村で、荒井川は村の中央を北西から南東へ流れる。下流は下久我村で、もとは一村であった。近世期を通じて都賀郡に属し、現鹿沼市域の西部にあたる。元和6年(1620)、「久加村」の一部は草久村とともに日光山へ寄進された。「慶安郷帳」には二筆の久賀村があらわれるが、そのうち日光領分にあたるのが当村と考えられている。これによれば田43石余、畑306石余であった。「元禄郷帳」では827石余、日光領とあり、以降は村高、所領に変化なく明治に至った。近世後期には村内の山中に炭竃が13あり、石裂山の社家をはじめとする13人が所有した。報徳仕法が実施され、木曽檜の植え付け、荒地の起き返しを目的とする用水開削がおこなわれた。寺院には正泉寺があり、明治初年に廃寺となった。現在の加蘇山神社は近世期には石裂大権現と称し、農耕、火伏せの神として信仰され、主に関東地方東部から福島県にいたる地域から参詣者を迎えていた。
参考
慶安郷帳  1648年  元禄郷帳  1701年 天保郷帳  1834年 

参考
摂社:せっしゃ、本社と末社とのあいだに位し,本社の祭神とかかわりをもつ神などを祭る神社をさす。
御師:おし、伊勢神宮では「おんし」という。主として神社と信者のあいだを仲介する下級の神職。御師の語は御祈祷師から出たといわれるが,もと仏教者のあいだで使われたことばで,師檀関係をむすんだ人が師に敬称をつけた。
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